小説・虐殺器官で繰り返し描かれる3つのテーマ

伊藤計劃(いとうけいかく)の虐殺器官というSF小説で描かれていたテーマについて、まとめます。   虐殺器官はSFとして、戦争映画としての評判が高く、そういった要素を称賛するレビューを多く見受けます。   ですが、小説版には哲学的な問いかけが多くちりばめられており、その問いは物語の中で一貫して繰り返されています。   今回は、その中でも特に印象に残ったテーマを引用とともに紹介したいと思います。  

 

 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

人の生と死の境界はどこにあるのか?

 

P260 「かつては、意識は『ある』状態と『ない』状態の二種類しかないと考えられていました。・・・眠りと隔世の間にも、約20の亜段階が存在します。意識、ここにいるわたしとういう自我は常に一定のレベルを保っているわけではないのです。・・・私やあなたは絶えず薄まったり、濃くなったりしているのです。」

  主人公のクラヴィス・シェパードの母親は交通事故にあい、植物状態となってしまいます。   母が入院した病院では最新の医療設備がそろっており、クラヴィスの母の脳は大部分を損傷しましたが、まだ延命治療が成功していました。   この状態で、母を生かすか殺すかの判断はクラヴィスにゆだねられ、クラヴィスは延命装置のスイッチを切ることを決断しました。   その後、母を殺したのではないかという疑念に取りつかれていきます。   意識は一体どこにあるのか。 クラヴィスが延命装置を切る前の母親には意識というものがあったのか。 そして、その状態の母親の延命装置のスイッチを切ることは殺人ではないのか。   という疑問は物語の中で何度も繰り返されていました。  

良心とは作られるものなのか?

ラヴィス・シェパードたち、特殊戦闘員たちは、戦場に赴く前に、戦闘に適した状態に感情を調整します。   それは、カウンセリングであり、神経伝達物質の投与によって行われるのですが、それによって、彼らは簡単に敵を殺害できるような精神状態になります。   良心は、そのように物質や他者との対話によって操作できてしまうものとして描かれています。   この物語中で虐殺を引き起こしているジョン・ポールはまさにこの良心を抑制する手法を開発した人物であり、良心はいとも簡単に操作できることを虐殺を引き起こすことで証明しています。  

  P312 良心とは、要するに人間の脳にある様々な価値バランスのことだ。各モジュールが出してくる欲求を調整して、将来にわたるリスクを勘定し、その結果としての最善行動として良心が生まれる。 ・・・ だから、あるモジュールをちょっと抑制してやれば、そのバランスはいともたやすく崩壊する。虐殺の文法は、脳の片隅にあるごくごく小さな、とある領域の機能を抑制する。その結果、社会は混とん状態に陥り、虐殺の下地が出来上がるのさ。原理的には、君らが作戦前に特定の神経伝達物質とカウンセリングで脳を調整して、『良心』を限定的に抑制するのと何ら変わらない

 

今の自分の気持ちは自分のものなのか?

 P.254 この殺意は自分の殺意だろうか?

  虐殺器官の中には繰り返し、今の感情・意思決定が本当に自分のものなのかという問いが出てきます。 虐殺器官の世界では、感情や行動を簡単に操作する手法が開発されていて、いたるところにその技術を応用したものが登場します。   例えば、戦場では幼い子供兵をちゅうちょせず殺す意思決定をすることが求められますが、 クラヴィスたちはそのような感情状態に人為的に持っていかれます。  

P257 「われわれカウンセラーがしているのは、あなたがた兵士を戦闘に適した感情の状態に調整することです。戦場での反応速度を高め、判断に致命的な遅れをもたらしかねない倫理的ノイズが意識レベルに上ってこないように、目の細かいフィルターを脳内に構築する。まあ、フィルターというのはたとえ話で、実際は前頭葉の特定の機能モジュールへのマスキングと、われわれ軍事心理士によるカウンセリングの、相互作用による感情調整過程ですが」

  また、ゲーム理論によれば、より大きな獲物をしとめるには個々人の欲求に従うのではなく、協力行動をとることが成功につながると知られていますが、戦場に赴く前には協調行動を積極的にとるようなホルモンを鼻から吸引し、作戦成功のために役立てます。  

P.282 友情の元だぜ、クラヴィス。・・・この僕の思考自体が、協調を生み出すホルモンのせいだとしたら。仲間が自分を思いやってくれるとしんじこむよう傾向づけられた脳の幻覚、人工的に調整されたミラーニューロンの信号に過ぎないのだとしたら。

  こういったことを経験するうちに自分の感情が一体何によって形成されているのか次第に混乱する様子が描かれています。  

まとめ

  • 生と死の境目があるのか?
  • 良心とは作られたものなのか?
  • 今の自分の気持ちは自分のものなのか?

の3つのテーマの共通点は、私たちが当たり前に思っているもの

  • 生と死は2つに分けられる
  • 人間には生まれつき良心がある
  • 私の気持ちは私によってのみ作られる

を破壊することを目的としているところかもしれません。   虐殺器官の世界では科学技術は現実よりもずっと発展しており、それゆえ明るみになったテーマとして描かれていますが、今の私たちでも十分に考える必要のあるものだなと思いました。  

 

 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)